訪問看護師インタビュー
看護師の働き方も病院、クリニック、産業看護師等々と様々あります。その中でも最近注目を浴びているのが訪問看護。国の施策もあり、病院から在宅へ療養の場が移りつつあるのはご存知の通りです。昨今は看護教育課程でも、訪問看護が取り入れられるなど大きく流れが変わってきています。
ただ、興味はあるけど、実際には難しいのでは?という不安を持たれている方も多いはず。
「訪問看護の魅力」ってなんだろう?
今回は弊社、株式会社 介護NEXT本部 訪問看護事業部長の齋藤雅子 看護師と、メディナス訪問看護ステーション東大宮の初代管理者の深谷看護師に今までの経験やご自身のエピソードを交えて語っていただきました。
本日はお忙しいところお集まりいただき、ありがとうございます。
今回は、訪問看護に興味があるという看護師さん達に、更に訪問看護の魅力をお伝えしたく、お二人に様々なインタビューを行いたいと思います。
お二人とも、どうぞよろしくお願いします。
さて、まず、お二人にお伺いします。訪問看護に興味を持ったきっかけを教えてもらえますか?
私はもともと病棟経験が無く、病院ではオペ室勤務で、週一回の外来という状況でした。その時に、たまたまですが、訪問診療の先生についてALSの患者さんのところにいったのが初めての在宅経験だったのです。
だから、知らず知らずの内に訪問看護をやっていたという感じが正直なところです。
その後、看護師2年目で透析室、そして3年目から、地域の診療所で働かせていただきました。その診療所は、地域の中に根付いた診療所だったので、様々な患者さんと、病気の事はもちろんありますが、時にはワイワイと楽しくやっていた記憶があります。
この時、在宅での患者さんは、病院で見る顔とは全く違う表情をしていて、一緒に泣いたり笑ったりしながらのケアは、他では経験できないな。と感じたのが、訪問看護に興味を持ったきっかけだったと思います。
私の祖母を家で看取ったというのが、今の訪問看護につながる原点になっているのかな?と今振り返るとそう思います。
看護学校を出てから病院で働き始めた時、最初は病院の病棟配属でした。「天国に一番近い病棟」と言われているところに配属となり、一晩に3人看送る経験もしてきました。
その後は、外科病棟への配属で、術前の検査や処置、術後の病状管理、退院指導で忙しくて。患者さんのベッドサイドで今、大事な話をしてくれようとしている時でも、ナースコールで呼ばれて、お話が中断してしまうことも時にはありました。
病院勤務時に、1人の患者さんと向き合う時間すらないというのがフラストレーションとなっていたと思います。
そんな時に、祖母のかかりつけである田舎の診療所の先生が往診をしてくれて、命を伸ばすための無意味な医療ではなくて、痛みとか苦しみとかを取るだけの治療をしてくれたのです。病院では、例えば、がん末期では、点滴につながれて、利尿剤や昇圧剤を使って、既に魂はここにないのではという体を生かし続ける医療を見てきました。これとは、まったく違う感覚。死とはこうやって子供からひ孫まで、親族や家族に囲まれてゆっくりと看取られるという事が自然なのでは?と感じたことが、在宅医療に興味を持ったきっかけだったと思います。
祖母の最期には、その診療所の先生と一緒にエンゼルケアを行い、在宅でもこういうことが出来るんだと思ったのが原点です。
お二人とも、様々な経験があって、訪問看護の世界に入ってきたのですね。
さて、深谷さんの場合は、いつ訪問看護師になったのかというのは、切れ目が無いので難しいかもしれませんが、お二人が訪問看護師になりたてのころの失敗談があれば、お聞かせ願えますか?
ご利用者様のお宅に行きますが、私たちは公的な仕事をしているというところもあって、お客様からの接待を受けてはいけないことになっています。
どうしても最初にお茶を飲んでください、お菓子をどうぞって言われるお宅があって。
それで、いけないと教わっていたため、かたくなに断り続けたら、そのご利用者様の奥さまに、心の通じない人ね。と怒られてしまったのが最初の大きな失敗でした。
福井の田舎から埼玉に出てきて、初めての地の訪問看護ステーションの第1日目に地図と手順書を渡されてケアしてきてと放り出されたので、道が分からないで迷ってしまったという経験もありますが、一番の失敗は言葉でしたね。いわゆる、方言というものでしょうか。共通語だと思っていた言葉が伝わらなかったというところでしょうか。
例えば、福井では、お風呂に入ることを「お風呂に行く」と言うんです。ある時ご利用者様に「では、そろそろお風呂に行きましょうか?」と言ったら「風呂なんか行かねぇよ!」と言われてしまい閉口したことがあります。
ご利用者様は、デイサービスや銭湯、つまり自宅から外に出てお風呂に連れ出されるのかと思ってしまったらしいのです。ちゃんと説明したら「なんだそうか。」とはなりましたがね。その他「体がだるいの?」と言う事を「えらいの?」と言って「?」という表情をされてしまったり。
なるほどですね。笑ってはいけないですが、笑みがこぼれる失敗談ですね。
失礼しました。
では、続けさせてもらいますね。
お二人とも、訪問看護をずっと続けてきていらっしゃいますが、昔の自分と今の自分とは、訪問看護というお仕事の上でも、違ってきているのではないでしょうか?
例えば、こんなエピソードがあって、その後、自分の訪問看護師としてのスタイルがガラッと変わってしまったとか。そんな転機や衝撃的なエピソードがあったら教えてもらえますか?
そうですね。訪問看護をやって9年目くらいに、何年やっても訪問看護が分からないという壁にぶつかったことがありました。実訪問看護自体はやってはいたのですが、制度も含めて、果たすべき役割とか、ケアチームの中の看護の役割分担であるとか、体系立てて訪問看護って何かということが分からなかったんです。
何かモヤモヤとしたこの気持ちを抱えたままではいけない。何とか打開しようと思い、訪問看護の認定看護師になるべく教育過程に入ったこと。これが私の大きな転機となっていますね。
当時、訪問看護認定看護師の教育課程は、その制度がスタートして3年目という中でして、同級生のほとんどが、管理者という状況でした。当時の私は、一訪問スタッフ。もちろん様々な研修には出させてもらっていましたが、全体像が分からない。見えない。そう言う気持ちでいっぱいだったのだと思います。
でも、訪問看護認定看護師の教育課程を進む中で、今まで一スタッフでは全くやったことの無い「管理」という内容を通じて「制度」とか、訪問看護の「価値や役割」、「意義」を学びました。
そして自分が訪問を実践するだけではなく、自らも一つの社会資源として自覚を持ち、同じ訪問看護を目指す方々の教育や指導をしたり、相談援助をするということを学んだのが、大きく自分を変えられるきっかけになったかなと思います。
他職種とどう関わっていき、その中で訪問看護がどういう役割を果たして行くか?
より良いチームケアを行っていくためのチーム作りに訪問看護はいかに寄与できるのか。そういう悩みはクリアできましたし、更にプラスして教育課程の中では、自分の考え、いわゆる暗黙知を言語化して伝える、言わば形式知化して行くという訓練を繰り返し行われたことも、その時の自分に大きな影響を与えたと思います。
この地に来て2~3年経った頃、一緒にやっている訪問看護師の先輩達に追いつけない。どうしたら良いのだろうという、悩みを抱えていました。
そんな時に、2人の患者さんと出会ったんです。一人は私と同じくらいの年の乳がん末期の女性で、自分の病名も知っており、この先、長くないという病状も分かっている人。もう一人は、胃がんの末期の男性で、病名は知ってはいましたが、病状の進行を知らされていない人でした。このお二人を同時に担当しなければならなくなったことが、今の自分に大きな影響を与えたかなと思います。
実は、お二人とも、もう手の施しようがない状態だったのです。
もう死に行くことを知っている乳がんの女性が、何か判断に迷うことがあると「深谷さんだったらどうする?」といつも聞かれました。その方には、私の子供と同じ年の子供がいらっしゃったので、いつも看護師としてではなく、同じ母親としての立場で言うねって前置きしてから答えを伝えていました。これは今考えても、良かったのか悪かったのか判断に迷いますが「深谷さん、そう言ってくれてありがとう。実は私もそうしようと思ってました。」という言葉をもらっていたので、多分、背中を押してあげることが出来ていたのだと思ってます。
一方、胃がん末期の男性はご自身が死ぬとは思っていなかったのですが、緩和ケア病棟への入院をすすめられました。その時、彼は、いぶかしんで「自分は死ぬのか?」と言われたことがありました。「先ずは痛みをとることを優先しなければならないから入るんだよ」とお話しして、入院してもらいました。
本音でぶつかれた患者さんと、嘘をつかなければならなかった患者さんを同時に受け持った経験は、自分の中では辛いことではありましたが、訪問看護を続ける上で必要な転機だったのかな?と思ってます。
なるほど。
今のお二人を形作っているものは、その時のご経験が大きく影響をしているのですね。
齋藤さんのおっしゃる、暗黙知から形式知へ等は、一橋大学、野中先生のSECIモデルでも言われているナレッジマネジメントにも通じますね。
ありがとうございました。
さて、ここで、訪問看護師を目指している、若しくは目指そうとされている看護師さんに、どういう看護師さんが在宅に向いているのか?そのあたりを伺いたいと思います。